こんにちは。
カントリージェントルマン鴨志田です。
東京在住の頃、
ネットベンチャー行政書士として開業。
2004年、東京井の頭から
軽井沢追分へ移住しました。
なんで、東京から軽井沢に移住したんですか・・・?
この20年間、これが一番いただいた質問でした。
毎回、いろいろ答えていたんですけど、
繰り返し、何度も、聞かれ続けてきたので、
ブログにまとめてみたのでした。
軽井沢追分への移住に
興味があるんだけど
なぜ、追分に移住したの?
そんな疑問・質問、よくわかります。
この記事を読むと、
●地方移住への道 人生リスト100
●地方移住への道 環境の激変
●地方移住への道 地方で子育て
●地方移住への道 テレワーク
●地方移住への道 決め手の1つは直感
●なぜ軽井沢移住だったのか?
●軽井沢移住への道 軽井沢の教会巡り 石の教会
●軽井沢移住への道 影響を受けた人物
●軽井沢移住への道 軽井沢町の特殊性
●なぜ軽井沢の追分移住だったのか?
●軽井沢追分とは?
●軽井沢追分移住への道 定住に適していて&自然豊か
●軽井沢追分移住への道 程よい隣組ネットワーク
●軽井沢追分移住への道 住環境
●軽井沢追分移住20年の満足度
がわかります。
そこで、まずは、結論から。
地方移住への道
プロローグ
最近の傾向・・・コロナ禍の影響
新型コロナ禍をきっかけに、
地方移住に関心を持つ人たちが増えている
というニュースをよく耳にしましたね。
ここ数年は、若い人たちが検討する機会も増え、
子育て世代の移住希望者も多くなってます。
東京の20代の1/3以上の人が、
地方移住に関心が高まっているという
調査結果もあるとか。
2007年問題
地方移住というと、かつては、定年を迎えた
シニア世代が、第二の人生をゆったりと
過ごすというイメージがありました。
2007年以降は、団塊世代が順に
定年退職を迎えたため、
第4次田舎暮らしブームもあったとか。
わが家の場合
2004年9月22日、わが家は、
東京井の頭から軽井沢追分へ移住しました。
当時は、コロナ禍ではなく、
移住のとき、わたしは、まだ30代。
都心から地方へ移り住むことを、
夢や憧れで語る方は、結構、
いらっしゃいましたけど、
いざ、実行するとなると、
大変なことも盛りだくさん。
では、なぜ、地方移住への道を選んだのか・・・?
ちょっと、あらためて考えてみたくなりました。
地方移住への道 人生リスト100
ロバート・ハリス
移住前、1988年の開局当初から、
よ~く、J-WAVEを聴いてました。
J-WAVEのナビゲーターで
作家のロバート・ハリスの影響を受け、
いつからか、『人生リスト100』なる
自分の夢リストのようなものを作って、
ほぼ毎朝眺めることを日課の1つとしていました。
そのリストの2番目に、
次のようなものがありました。
カントリージェントルマンとは
これを、「田舎紳士」と訳してはいけません。
地方に住みながら
中央に目を光らせる
本当の紳士
時流に流されず
自らの考えを
身をもって実行する人のこと
<白州次郎語録から引用>
今思うと、カントリージェントルマンという
キーワードとの出会いが、
地方移住への道の第一歩になった
ような氣がします。
白洲次郎
白洲次郎をTVではじめて知り、その中で
カントリージェントルマンという生き方と
出会ったのが、はっきりと覚えていないものの、
おそらく1990年代。
白洲次郎が、居を構えた地方とは、
東京都南多摩郡鶴川村。
『地方って言ったって、東京じゃないの?」
と言いたくなるものの、
これは、戦前の1940年の話。
今の東京町田市とはいえ、当事は、十分、
地方であり、田舎だったのだと思います。
『じゃあ、今の自分にとっての地方って、
一体、どこなんだろう・・・?』
そんなことを漠然と考え、
想いを巡らせることから、
私の地方移住への道ははじまりました。
実現可能性
人生リスト100に、
と書いた1998年頃の自分にとって、
このアイデアは、残念ながら、
実現可能性に?のつくものでもありました。
当時は、塾講師(英語)をしながら、
司法試験合格を目指して、
いわゆる司法浪人していた頃。
今のビジネス(行政書士オフィス)も起業前で、
正直、経済的にも余裕はありませんでした。
だから、地方移住はおろか、
自分の家を持つことすら、
容易ではなかったと思います。
青山散歩
そんな経済状態でも、頭の中でいろいろ考えたり、
情報収集することはできます。この頃の自分は、
・・・と思いを巡らせていました。
当時、青山散歩と称して、井の頭線で渋谷へ、
その後、宮益坂を上って青山まで散歩に出かけ、
青山ブックセンターへ。
地方移住のアンテナに引っかかった書籍を
物色して、イメージを膨らませていたのでした。
では、なぜ、地方移住への道を選んだのか・・・?
地方移住への道 環境の激変
地球温暖化
思えば、1990年代は、
様々な変化を感じる10年でした。
地球温暖化が、TVや雑誌で
取り上げられはじめたのもこの頃。
地球サミット(1992年)、
京都議定書(1997年)といった
ニュースもありました。
身近なところでも、例えば、異常な夏の暑さ、
そして、東京のヒートアイランド現象。
夏を迎えるのが、年々、しんどくなってきました。
安全神話崩壊
治安上も、日本の安全神話が、
音を立てて崩れはじめたのがこの頃。
その代表的な事件が、オーム真理教による、
地下鉄サリン事件(1995年)でした。
地方移住への道 地方で子育て
子育て、教育という視点でも、
都心で暮らすことには、
疑問を感じはじめてました。
当時、わたしは、栄光ゼミナール講師として、
9年間、現場で、受験や教育に
携わっていたんですけど、たった9年でも、
ずいぶんと変化を感じたものでした。
ポケベル、たまごっち、PHS、携帯、ゲーム。
いじめ。中学受験の過熱。
氾濫する情報に踊らされる子供たち。
一方、年々、幼稚になっていく親たち。
塾講師にはやりがいを感じていたものの、
もし、自分に子ができたとき、
こういう環境で、子育てしていくことには、
不安を覚えていました。
他の選択肢も欲しいと。
地方移住への道 テレワーク
Windows95
一方、爆発的なブレイクとなった
Windows95発売以降、
インターネットが普及しはじめ、
様々な変化の兆しが見えはじめたのもこの頃。
インターネットの普及により、
趣味レベルにとどまらず、
ビジネススタイルの変革も
はじまりつつありました。
上手くインターネットを活用すれば、
どこにいても、全国区で、
仕事ができる可能性が広がりました。
たとえ、地方へ移住しても。
PACオフィス開業
2000年5月、東京井の頭で、
わたしは、PACオフィスを開業。
ネットベンチャー行政書士として、
おかげさまで、徐々に、軌道にのり、
地方移住の環境も整いつつありました。
地方移住への道 決め手の1つは直感
挙げれば、地方移住の理由は
いくつもあるんですけど、
やはり、決め手の1つは直感。
直感を侮ってはいけません。
軽井沢移住への道
前回の地方移住への道の中で、
『なぜ地方移住をめざしたのか・・・
一言で言えば、直感』と書きました。
それでは、なぜ軽井沢移住だったのか?
2000年5月26日、東京井の頭で、
PACオフィス(行政書士)を開業した当時、
すでに、地方移住のビジョンはあったものの、
『よし、将来、軽井沢に移住するぞ!』
とまでは思っていませんでした。
軽井沢も候補の1つではありましたので、
おそらく、浅間山を眺めながら、自然豊かな地で、
緑、おいしい空気と水を満喫するのも悪くないな
とは思っていたでしょう。
新幹線で東京まで1時間の軽井沢ですけど、
わたしに新幹線通勤の予定はなし。
交通の便がよいのは助かるものの、
移住後、それ程、東京に出ることは
ないだろうとイメージしていました。
軽井沢、旧軽というブランドに、
強い憧れを持っていたわけでもありません。
では、なぜ、軽井沢移住への道を進んだのか?
今思うと、確かにきっかけはいくつかありました。
軽井沢移住への道 軽井沢の教会巡り 石の教会
1999年3月、北軽井沢のホテルに宿泊し、
帰りに軽井沢の教会巡りをしていたとき、
石の教会に感動。この頃から、軽井沢に
出会いを感じはじめていたような氣がします。
2000年8月、結局、出会いを大切にし、
石の教会にて挙式。
その間、準備などで、何度か足を運びながら、
急速に軽井沢に惹かれていきました。
軽井沢移住への道 影響を受けた人物
白洲次郎
カントリージェントルマンへの道で
影響を受けた人物、白洲次郎。
彼が別荘を持っていたのも、軽井沢でした。
玉村豊男
地方移住やホームファーミングで
影響を受けた人物、玉村豊男。
ヴィラデストワイナリーでも有名な
彼が以前住んでいたのも軽井沢でした。
軽井沢移住への道 両実家の中間点
わたしの実家が埼玉県川口市。
妻の実家が富山県立山町。
軽井沢は、互いの実家のほぼ中間点に
位置していたことも、理由の1つ。
帰省の際に、上信越道を利用していたので、
軽井沢は、身近な存在になっていたんです。
軽井沢移住への道 軽井沢町の特殊性
ネームバリュー
その知名度、全国区のネームバリューが
あるという点、明らかにビジネス上の
メリットを感じていました。
信州の中の1つの町なのに、軽井沢と聞いて、
ポジティブなイメージを持っていただける
ことが多いのは、ありがたいです。
ご存知の通り、軽井沢は、田舎でも都会でも、
ただの観光地でもない、不思議な場所。
わたしに限らず、軽井沢に何らかの魅力を
感じる方は多いようですし、その歴史も
知れば知るほど多種多様で面白いです。
地方なのに人口増
少子化と過疎が進む地方にあって、
軽井沢は、珍しく、人口が増えている町。
よいことばかりではないものの、
前向きなデータの1つだと思いました。
不交付団体
地方分権と言われながらも、財政的には
相当苦しい地方が多い中、軽井沢町は、
地方交付税の不交付団体。
財政的にも恵まれていることは、
定住目的の者として、心強さを感じました。
軽井沢はパワースポット
挙げれば、軽井沢移住の理由は
いくつもあるんですけど、
やはり、決め手の1つはパワースポット。
最大の理由を一言で言えば、私にとって、
軽井沢はパワースポットであると
感じたからなんです。
- パワースポットとは
⇒地球上に点在する特別な「場」 そこに行くと、人は不思議とくつろぎ、エネルギーが充電され、溜まっていた心身の汚れが浄化されるところ
自分にとってのパワースポットはどこなのか、
ずいぶん前から意識して過ごしてきました。
移住前に住んでいた井の頭や吉祥寺、そして、
よく散歩していた青山が、わたしにとっての
パワースポットでした。
そして、移住して18年経って感じることは、
やっぱり、軽井沢は、わたしにとっての
パワースポットだったんだな~ということ。
こういうブログをやっていること自体、
その影響を受けているのかもしれませんね。
軽井沢追分移住への道
前回の軽井沢移住への道の中で、
『なぜ軽井沢移住をめざしたのか・・・
一言で言えば、パワースポットである
と感じたから』と書きました。
それでは、なぜ軽井沢の追分移住だったのか?
我が家が、軽井沢の土地探しをはじめたのは
2002年。はっきり言って、この時点では、
軽井沢の西に位置する追分に
注目していたわけではありませんでした。
もしかすると、追分をはっきりとは
認識していなかったかもしれません。
少なくとも、この時点で、軽井沢町内の
エリアの絞込みまではしていませんでした。
では、なぜ軽井沢の追分移住だったのか?
軽井沢追分とは?
追分は、中山道69次のうち、
江戸から数えて20番目の宿場町。
その名は、中山道と北国街道(北陸道)との
分岐点ということに由来します。
江戸時代、浅間根腰の三宿と呼ばれた
軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿。
今は、ご存じの通り、軽井沢、中軽井沢の方が
特に経済的には栄えているものの、
昔、一番繁栄していたのは追分だったのでした。
現在、最も宿場時代の風情を偲ぶ
ことができるのも、追分。
また、民謡に多くみられる
追分節の発祥の地でもあります。
軽井沢追分移住への道 定住に適していて&自然豊か
せっかく都心から軽井沢に移住するならば、
山奥はともかく、分譲住宅地や
別荘管理地のようなところではなく、
緑に囲まれた、広めの土地に住んでみたい!
と思うのは、わたしだけではないはず。
軽井沢町内には、自然豊かなエリアが
多く残されているものの、
定住に適していて&自然豊かという
候補地は、実際に、土地探しをしていて、
追分周辺が多かったですね、経験上。
軽井沢追分移住への道 程よい隣組ネットワーク
追分は、私の知る限り、軽井沢町の中でも、
隣組と呼ばれる地元のネットワークが
最も生きているエリアの1つです。
都心から地方に移住すると、
濃すぎる人間関係に苦労させられた
話をよく聞きますけど、
軽井沢は、比較的風通しのいい町。
入る者は拒まず、出る者は追わずなんです。
江戸時代から宿場町として人の出入りが多く、
現在も、移住組が多いからなのかもしれません。
一方で、人間関係が希薄すぎる都心と比べ、
追分の隣組や、特に夏祭りの有志のみなさんの
ネットワークは程よいんですよね。
わたしのように、移住してきて、即、
活躍させてくれる雰囲気があります。
もちろん、Giveの精神は必要ですよ。
軽井沢追分移住への道 住環境
2002年10月から、軽井沢の不動産会社を
訪れ、土地探しをはじめたんですけど、その際、
不動産会社のみなさんから伺ったアドバイス中に、
貴重な情報がいくつもありました(感謝)。
軽井沢追分の坪単価が比較的安い
東京と比べると、坪単価はかなり安いものの、軽井沢町内でも、エリアにより開きがあります
追分物件は、比較的、坪単価がより下がる傾向にあるので、土地の広さを求めるならば、狙い目
湿気対策
湿気については、特に北東(旧軽井沢含む)は深刻です
定住するならば、中軽井沢より西がおすすめ
渋滞対策
観光シーズンの渋滞問題は深刻です 国道18号やプリンス通りは要注意 裏道を確保したい
軽井沢町内のスーパーは充実しているものの西の御代田・佐久方面へ出る人も多いようです
まとめ:【まとめ・体験談】軽井沢追分移住への道~失敗や後悔しないために知っておきたいこと
【おすすめ】軽井沢移住して家づくり わたしのバイブル
- 2002年10月
⇒地元不動産会社さんを訪問し、はじめての軽井沢土地探し - 2003年9月
⇒地元不動産会社さん仲介で、軽井沢に土地を購入 - 2003年11月
⇒地元の設計士さんと設計監理契約 - 2004年2月
⇒地元工務店さんと建物建築請負契約 - 2004年3月
⇒着工 - 2004年9月
⇒完成・引渡
2003年1月、青山ブックセンターで、
この本と出会い、購入。
軽井沢に移住して家づくりしていく上で、
バイブル的存在になってくれました。
軽井沢追分移住20年の満足度
軽井沢追分へ移住して20年。
あっという間でしたけど、とても満足しています。
すべてが思い通りに運んだわけではありません。
土地探し、家づくりにはじまり、移住後の仕事、
生活、子育て、地域でのお付き合い・・・
悩みや心配事もたくさんありました。
でも、それは、東京で暮らしていても
あったでしょうし、軽井沢追分移住のおかげで、
だいぶ軽くなったようにも感じてます。
わが家は、追分の村中、国道18号から
それほど離れていないものの、
おかげさまで、緑に囲まれ、自然豊か。
玄関出たら、すぐ、癒しをいただいてます。
悩みや心配事が多少あっても、
それ以上のメリットを体感できることは、
ほんと、ありがたいことだと思ってます。
詳しいことは、少しずつ書いていきますけど、
現時点の満足度は、88点くらいかな~(感謝)。
軽井沢追分を選んで本当によかった
何度目かの土地探しの際、
軽井沢駅方面から18号を追分で左折し、
林を抜けながら、信濃追分駅方面に
車で坂を下っていくとき、
おそらく、
この辺に住むことになるのだな~
というインスピレーションが
ビビッ!ときたのを、今でも覚えています。
追分の今の土地と出会えたことに
感謝してます。
我が家の西隣りは定住者で、東隣りが別荘。
定住エリアと別荘地エリアのちょうど境にあり、
南には林が広がっています。
素晴らしいのは環境だけでなく、
近隣の定住の方、別荘の方をはじめ、
毎年、追分人との交流の輪が広がってます。
ありがたい。というわけで、
移住して20年経ちましたけど、
すっかり追分の魅力にはまってますし、
軽井沢に移住の際、
追分を選んで本当によかった!
と思ってます。
軽井沢追分移住に関心のある方のために
軽井沢追分移住してから今までの経過、結果を、
このブログに発表することで、
- 信州移住に関心がある方のために、
- 軽井沢追分移住に興味のある方のために、
- そして、自分と家族のために、
何かお役に立てればうれしいです。
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